涌井 秀章(わくい・ひであき)

1986年6月21日生まれ。千葉県松戸市出身。右投げ右打ち。身長185cm、体重85kg。NPB史上唯一の3球団での最多勝利受賞者。妻はモデルの押切もえ。『ボンバーマン』はかなりの腕前。幼少時は偏食だったが、現在は野菜中心の食生活を心がける。

球持ちが良く、バランスの取れたフォームが持ち味。キレの良い速球と多彩な変化球を偏りなく投じる。豊富な走り込み量によって培われた強靭な足腰を持ち、完投能力が高い。変化球は縦横のスライダー、120km/h前後のカーブ、100km/h前後のスローカーブ、フォーク、チェンジアップ、シュート、カットボールを投じ、どの球種でもストライクが取れて勝負ができる。ただ、絶対的な決め球には欠けるため、奪三振能力は高くない。フィールディングも上手く、バント処理のほか、牽制も巧み。2011年には両リーグ最多の5度の牽制アウトを記録しており、ゴールデングラブ賞も4回受賞している。

松戸市立寒風台小学校時代は寒風台ソフトボールチームに所属しており、野球は行っていなかった。

松戸市立第六中学校に進学後のシニアリーグ(松戸シニア)で野球を始める。

高校は横浜高校に進学。同校では入学時から松坂大輔二世と呼ばれ、高校2年春に第75回選抜高等学校野球大会に1学年上のエース成瀬善久らと共に出場。準決勝までは成瀬の中継ぎとして登板していた。ただ、決勝戦では先発するも、広陵高等学校の打線につかまり、3-15と大敗した。高校2年夏の第85回全国高等学校野球選手権大会神奈川大会では3回戦の港北高等学校戦で成瀬に代わり先発を務めたが、ノーシード高相手にリードを許す展開となり、成瀬の休養に失敗。9回逆転で辛くも勝ち上がるも、チームは決勝で2年生の田澤純一を擁する横浜商科大学高等学校と対戦し、肩を痛めていた成瀬が1回で降板。2番手として登板した涌井も失点を重ね、打線も奮わず敗れ春夏連続出場を逃した。高校3年夏には第86回全国高等学校野球選手権大会に出場。大会屈指の好投手として注目を集め、1回戦の報徳学園高等学校戦では9回2失点の完投勝利。打撃でも片山博視から本塁打を打つなど、2安打を記録した。

2004年のNPBドラフト会議で西武ライオンズから単独で1巡目指名を受け、入団。背番号は16。

プロ入り1年目となる2005年から開幕一軍入りを果たすと、3月29日の北海道日本ハムファイターズ戦でプロ初登板初先発。ただ、この試合では髙橋信二に満塁本塁打を打たれるなど、2回1/3を7失点だった。その後は6月18日のセ・パ交流戦最終戦の対ヤクルトスワローズ戦でプロ初勝利をマーク。このシーズンは勝ち星はこの1勝のみで55.1回を投げて1勝6敗、防御率7.32。同年、ファームの優秀選手賞を受賞した。

2006年は開幕から先発ローテーションに定着。3月26日のオリックス・バファローズ戦で勝利投手となると、4月23日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では自身初の完投および完封勝利を記録した。この時は捕手を炭谷銀仁朗が務めており、10代バッテリーでの勝利は1989年、横浜大洋ホエールズの石井忠徳と谷繁元信以来17年ぶりだった。6月はリーグ1位の防御率、3勝1敗で初の月間MVPを受賞。監督推薦でオールスターゲームにも初出場している。シーズン通算では26登板で178回を投げて12勝8敗、防御率は3.24だった。また、この年のオフには怪我で辞退した福留孝介に替わり日米野球に選出。1イニングの登板ながら好投を見せ、ジャーメイン・ダイからは「いずれメジャーで通用する素晴らしい投手だった」とコメントされた。

2007年はデビュー時の速球中心の投球から打たせて取る投球にモデルチェンジ。勝ち星を積み重ね、4月3日の対ソフトバンク戦の5回表にはプロ野球史上12人目となる1イニング4奪三振を達成。シーズン通算では最終的に17勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得し、両リーグ最多の213投球回と199被安打を記録。防御率は2.79で奪三振は141、完投数11はリーグ2位だった。また、12月の北京五輪出場をかけたアジア予選決勝リーグの日本代表メンバーに最年少で選出され、初戦のフィリピン戦で先発。6回1安打無失点の好投を見せた。また、この試合の先発を告げるため監督の星野仙一の部屋に呼ばれた際には涌井本人はてっきり代表落選の知らせだと思いこみ「行きたくありません」と駄々をこねたという。シーズンオフの契約更改の際には球団側から背番号18への変更を打診されるも固辞。「投手のタイトルを全て獲るくらいでないと変えられない」という背番号18の重さと「西武になってから16番を付けたのは3人(松沼雅之・潮崎哲也・涌井)だけ」と西武投手陣の一角を担った背番号16の先輩に対する敬意を理由に挙げている。

2008年は3月20日の対オリックス戦で初の開幕投手を務めた。ただ、シーズン序盤は防御率1点台と比較的好調ながらも自身は勝利に恵まれず、開幕から4試合目の4月10日のロッテ戦まで勝ちがつかなかった。また、中盤以降はやや低調な成績が続いた。それでも8月には北京オリンピック野球日本代表に選出され、台湾戦と中国戦の先発を任されて2勝をマーク。韓国戦の中継ぎとしても登板し、この大会の日本代表投手の中で最多イニング登板となった。オリンピック終了後は国際球とNPB球との違いに苦しむなど、与四死球率は前年の2.45から3.07と悪化。11敗を喫したが、25先発で173.0回を投げて122奪三振、防御率3.90、WHIP1.29で3年連続となる2桁勝利となる10勝をマークし、チームをリーグ優勝に導いた。また、クライマックスシリーズ第2ステージでは第1戦と第5戦に先発し、計15回を投げて1失点で2勝をマーク。特に第5戦は7回二死まで走者を許さず、最終的には3安打無四球完封勝利で胴上げ投手となり、シリーズのMVPに輝いた。その後は読売ジャイアンツとの日本シリーズで第1戦と第5戦に先発。第1戦では8回を投げ1安打、1失点を記録したものの、第5戦では6回まで1失点に抑えるも、7回に突如乱れて4失点し、チームも敗北。しかし、第7戦に5回から3番手として中継ぎで登板すると2イニングをパーフェクトに抑えて日本一を達成。その後のアジアシリーズでは決勝の統一ライオンズ戦に先発し、6回2/3を無失点に抑えて優勝に貢献した。そしてこの年のオフも前年に続いて球団から背番号18を打診され、悩んだ末に背番号変更を決意。それまでの背番号16は石井一久に受け継がれた。これは当時2009年を最後に石井が引退するという噂があったため「最後にカズさんに16をつけて欲しかった」と雑誌のインタビューで語っている。

プロ入り5年目となる2009年は開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出され、同大会では3試合に登板して防御率2.70を記録。一方でシーズンでは4月3日の開幕戦で2年連続2回目の開幕投手をつとめた。その後は開幕から安定した投球を続け、7月には4先発で4勝0敗、防御率1.64の成績で月間MVPを獲得。前年からの球速アップへの取り組みや筋力トレーニングを積極的に取り入れたことから球威が上がり、奪三振数が増加。それまでの技巧派のイメージから一転して伸びのあるストレート主体の投球に切り替わった。しかし、抑えの切り札であったアレックス・グラマンが5月に左肩関節炎で離脱し、チームの中継ぎ陣が不安定になったことで先発した試合では完投を余儀なくされるようになる。結果として年間では3,555球を投げ、2007年の3,385球に続いて両リーグトップとなった。シーズン通算では27先発し、16勝6敗で2年ぶりの最多勝を獲得し、4年連続の2桁勝利を達成。また、投球回は12球団でただ1人200イニングを超える211.2回で完投11は両リーグ単独最多、完封4は両リーグ最多タイとなった。また、防御率2.30、奪三振数199はリーグ2位でWHIP1.12もといずれも自己最高であり、両リーグで唯1人、全ての選考基準を満たしたことで2009年度の沢村賞を受賞した。オフには出身地である松戸市の市民栄誉賞を受賞し、通算勝利数に応じて市に寄付を行うことが発表された。

2010年も3年連続3回目となる開幕投手を務めた。また、開幕戦では千葉ロッテマリーンズの横浜高校時代の先輩、成瀬善久との投げ合いになり、競り勝っている。しかし、その後は不安定な投球が続き、さらに4月9日の対ロッテ戦の前日の練習中に味方打者の打球が後頭部に直撃し、病院で検査を受けるというアクシデントに見舞われた。それでも5月以降は調子を持ち直し、交流戦では4勝をマーク。5月15日の横浜ベイスターズ戦では4打数3安打4打点の活躍を見せ、プロ入り後及びパ・リーグの投手として交流戦史上初の猛打賞を記録した。ただ、その後は石井一久と岸孝之が相次いで負傷離脱したため、中継ぎ温存のために毎試合完投することが多くなり、この夏の記録的な猛暑で登板中に脱水症状を起こし脚をつって降板するなど体力を消耗し、途中までは好投しても試合後半に突発的に打ち込まれて大量失点するケースが目立った。それでもシーズン通算では27先発で196.1回を投げて154奪三振、WHIP1.25で14勝8敗をマーク。シーズンオフには涌井と球団双方が日本プロ野球組織に年俸調停を申請。球団提示額は現状維持の2億2,000万円、涌井の希望額は5,000万円増の2億7,000万円であったとされ、調停結果は2億5,300万円と概ね涌井の主張が認められる形となった。

2011年も4年連続、4度目の開幕投手を務める。開幕戦では日本ハムのダルビッシュを相手に勝ち星を挙げる等、上々の滑り出しで6月半ばまでは防御率1点台で一時はリーグトップに立っていた。ただ、実は開幕前から肘痛に悩まされており、5月には登録を抹消。シーズン中の登録抹消は2年目にローテーション入りしてから日程の都合以外で初めてのことであった。その後は戦列に復帰するも、解消しない肘痛と6月の巨人戦で打球を当てた事による足痛によって大幅にフォームを崩し、7月以降は成績を落とした。シーズン通算では26先発も178.1回を投げて108奪三振、WHIP1.26で9勝12敗に終わり、5年続いていた2桁勝利が途絶えた。また、オフには5月の抹消時に右肘に遊離軟骨が見つかっていたことが発表され、一時は手術も検討したものの保存療法で回復を目指すことを選択した。

2012年も5年連続5度目の開幕投手を務めたが、開幕から3連敗を喫して4月16日に登録抹消。その後は抑えを務めていたエンリケ・ゴンザレスの不調により、プロ入り初の抑えで起用されることが決まった。すると5月4日に一軍に復帰し、同日の対ロッテ戦(西武ドーム)で1点リードされた9回に登板して打者3人を3者凡退に抑え、5月13日の対日本ハム戦では1イニングを無失点に抑えてプロ入り初セーブをマークした。ところが、5月18日発売の写真週刊誌『フライデー』において女性問題が発覚。24歳のホステスがベッド上のツーショット写真を公開し、翌日に涌井も「ファンの皆さんに心配をおかけし、申し訳ないです」と謝罪したが、22日に球団は品格を問題視して涌井の出場選手登録を無期限で抹消とすることを発表した。その後は6月16日に球団が厳重注意の上、処分解除を発表。同月22日に一軍復帰するとそれ以降はシーズン終了まで抑えとして活躍し、シーズン通算では3先発を含む55試合に登板。63.0回で40奪三振、WHIP1.40で1勝5敗、リーグ2位の30セーブ、防御率3.71の成績を挙げた。また、オフには「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表に選出されている。更に12月4日には第3回WBCの日本代表候補選手34人に選出された。

2013年は開幕前の2月20日に第3回WBC日本代表に選出され、2大会連続2度目の選出となった。しかし、WBC宮崎合宿中にも関わらず、2月20日に宮崎市内の繁華街で飲み歩いた末、女性をタクシーで“お持ち帰り”する様子が写真週刊誌に掲載されてしまう。その後は前年に続く女性問題が明るみとなったことで球団から厳重注意を受けている。一方でシーズンでは開幕から先発に復帰したが精彩を欠き、シーズン途中から中継ぎと先発復帰を繰り返すことになる。また、シーズン中盤以降は前年に続き中継ぎに専念し、終盤には抑えに定着。9月25日の対楽天戦からは10試合連続登板を果たし、稲尾和久の持つ球団記録を塗り替えた。また、10月1日からは6日連続でセーブを記録してチームのクライマックスシリーズ進出に貢献している。シーズン通算では11先発を含む45試合に登板。92.1回を投げて79奪三振、WHIP1.28で5勝7敗7セーブ、13ホールド、防御率3.90の成績だった。また、CSファーストステージ第3戦では1点ビハインドの8回表に登板するが、角中勝也にダメ押しとなる2点適時三塁打を打たれるなど一死も取れず降板。結果的にチームはファーストステージで敗退し、これが西武での最後の登板となった。シーズンオフに国内FA権を行使し、11月19日に千葉ロッテマリーンズと初交渉。12月18日に契約合意した旨が発表された。その後は12月25日に入団会見を行い、背番号は西武入団時と同じ16に決定。当時のロッテの監督であった伊東勤(西武時代の監督でもあった)は「前年の西武では中途半端な起用させていたからロッテに来れば再生できると思って球団に獲得をお願いした。」と後に明かしている。

プロ入り10年目となる2014年はシーズン3先発目となる4月15日の対埼玉西武ライオンズ3回戦(埼玉県営大宮公園野球場)で7回2失点の好投をみせ、移籍後初勝利をマーク。古巣である西武からのこの勝利で史上13人目となる全球団勝利を達成した。2005年に交流戦が開始されて以降にこの記録を達成した10人のうち、所属球団が最小の2球団で達成したのは久保康友、石井一久、杉内俊哉に次ぐ史上4人目。また、一方のリーグだけに所属して達成したのは涌井が史上初となった。ただ、前半戦は中々勝つことができない試合が続き、二軍落ちも経験。もっとも、後半戦に巻き返し、最終的には26先発。164.2回を投げて116奪三振、WHIP1.34、防御率4.21で8勝12敗と負け越すも、3年ぶりに規定投球回に到達した。

2015年はシーズン開幕戦(福岡ソフトバンクホークス戦)に先発し、6回無失点で勝利投手となる。また、4月4日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦では共に2年ぶり、ロッテ移籍後初となる完投勝利(9回1失点)、無四死球完投を僅か105球で記録した。その後も7月24日の楽天戦では7回2失点の好投でプロ通算100勝目の白星をマーク。その後も順調に勝ち星を重ねていき、8月14日のオリックス・バファローズ戦(ほっともっとフィールド神戸)では7回2失点の好投で2010年以来5年ぶりのシーズン2桁勝利をマークした。そしてシーズン最終戦となった10月6日の楽天イーグルス戦では自ら志願して登板し、延長10回・137球を投げて勝利投手となり、西武時代の2009年以来、6年ぶり自身3度目、ロッテ移籍後初の最多勝を獲得している。シーズン通算ではリーグ最多の28先発で188.2回を投げて117奪三振、WHIP1.25、防御率3.39で15勝9敗を挙げた。また、CSファーストステージ第3戦で先発投手を任され、6回1/3を投げて1失点、143球の熱投で勝利投手になっている。オフには5年ぶり3回目のゴールデングラブ賞も獲得した。

2016年は2年連続7度目の開幕投手を務める。また、開幕戦では北海道日本ハムファイターズ戦に登板し、7回無失点の好投で大谷翔平に投げ勝って開幕戦白星をマーク。この勝利で開幕戦通算5勝2敗となり、現役投手では最多の開幕戦勝利数となった。更にシーズン序盤は好調で3・4月の月間MVP を獲得するなど4月終了時点で5勝をマーク。6月17日の巨人戦、7月24日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で完投勝利を挙げるなど、完投能力も健在と一年となった。一方でこの年は打線の援護があまりなく、5月には2試合連続完投負け (埼玉西武ライオンズ戦9回2失点、ソフトバンク戦9回1失点) を記録。8月以後は1勝止まりに終わるも、最終的に26先発で188.2回を投げて2年連続の2桁勝利(10勝7敗)を記録し、118奪三振でWHIP1.29、防御率3.01(リーグ7位)だった。特に完投数5はリーグ1位となり、ゴールデングラブ賞も2年連続で獲得している。CSファーストステージでは第1戦に先発登板し、ソフトバンク相手に7回を投げて被安打6、失点2と好投。シーズン終了後の11月2日にはモデルの押切もえとの結婚を発表した。

2017年はキャンプイン直前の1月25日にこの年から3年間の契約延長(2019年シーズンまで。推定年俸2億5,000万円)を発表。契約延長に際して本人は「長いことロッテでやって欲しいと言われ、自分でもロッテでやりたい(と思った)」などと述べており、球団側は「体が頑丈で、ローテーションを外れたことがない。これだけ頼りになる人はいない。長く(ロッテで)やってほしいというのは一致している」とコメントしている。ただ、この年は25先発する等、一年間ローテーションは守ったものの158.0回を投げて115奪三振、WHIP1.32で5勝11敗に終わった。また、オフの11月8日にメジャー移籍を条件にFA権を行使している。

2018年は1月に入っても獲得意思を示したMLBの球団はなく、1月29日にメジャーを断念。ロッテに残留することを表明した。シーズンでは22先発したが、150.2回を投げて99奪三振、WHIP1.31で防御率3.70、7勝9敗と2年連続で負け越した。

プロ入り15年目となる2019年は自ら球団に志願し、背番号を18に変更。シーズンでは4月16日の対ソフトバンク戦で2010年7月16日以来の無四球完封勝利を収めた。その後は5月8日の対西武戦で3勝目を挙げるが、本人の投球内容の不調に加え、味方打線の援護に恵まれない試合が続き、以降は1勝もできずにシーズンを終了。17先発含む18試合の登板に留まり、104.0回を投げて87奪三振、WHIP1.42でロッテ移籍後では初めて規定投球回に到達できず、3勝7敗と3年連続で負け越した。するとオフの12月19日に金銭トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスへの移籍が決定。背番号は16で12月23日に公示された。

新型コロナウイルスの影響で短縮シーズンとなり、開幕も遅れた2020年は開幕から先発ローテーション入り。シーズン当初から前年とは打って変わって打線の援護にも恵まれ、6・7月度は6試合に登板して5勝0敗、防御率2.89、奪三振率9.88と好成績を収めて、4年ぶりに月間MVPに選出された。パ・リーグ3球団での同賞の受賞は涌井が初。また、8月5日の対ソフトバンク戦では9回一死まで無安打無得点の快投を披露。川島慶三にセンター前ヒットを打たれてノーヒットノーランは逃したが、その1安打のみで移籍後初の完封勝利を挙げて自身初の開幕6連勝を記録した。その後は同月26日の対ロッテ戦で7回3安打2失点で敗戦投手になるまで開幕からの連勝を8まで伸ばし、球団では2013年の田中将大(24連勝)以来2人目の快挙を飾った。この年は1年間を通してローテーションを守り抜き、130.0回を投げて110奪三振、WHIP1.14、11勝4敗、防御率3.60でシーズンを終えて千賀滉大、石川柊太と並んで2015年以来の最多勝利のタイトルを獲得。3球団での最多勝利獲得はNPB史上初となった。

2021年は3月26日の対日本ハム戦で10度目となる開幕投手を務め、7回4安打無失点で勝利。史上初となる3球団での開幕戦先発勝利投手となっている。更に3・4月度は6試合に登板してチームトップの4勝を挙げ、0敗、防御率1.51で楽天移籍後2度目となる月間MVPを獲得。もっとも、シーズンを通じては好調が続かず、17先発含む21試合に登板して96.1回を投げて76奪三振、WHIP1.41で6勝8敗、防御率5.04に終わった。

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