平田 真吾(ひらた・しんご)

1989年8月29日生まれ。山口県下関市出身。右投げ右打ち。身長182cm、体重85kg。人前で話すことは苦手。プロ初勝利を挙げた2020年10月7日の試合中にはTwitter上で「#平田真吾初勝利チャレンジ」なるハッシュタグがトレンド入りし、最高2位にランクインしている。

プロ入りすぐは球威ある最速151km/hのストレートと切れのあるスライダーやフォークボールを中心に力で押すスタイルだった。一方で年数を重ねることでカーブ、ツーシームを交えながらバランスよくコーナーに投げこむスタイルに変更している。ただ、シーズン後半に調子を落とす傾向がやや強い。

小学校ではソフトボールをプレー。

野球を本格的に始めたのは山口県の豊田西中時代で同校の軟式野球部に所属していた。

高校は山口県立豊北高等学校に進学。同校では山口県大会4回戦で敗退する等、目立った結果を残せなかった。

高校卒業後は北九州市立大学に進学。「大学では練習に出ないこともあったし、幽霊部員でした。公務員、消防隊員になりたいと思っていた」と語っていることもあり、同校では3年秋のリーグ戦まではわずか1試合しか登板できずにいた。しかし、4年秋のリーグ戦では5勝0敗、防御率1.15を記録し敢闘賞を受賞している。

大学卒業後はHonda熊本へ入社。同社の硬式野球部では2年目に日本選手権初戦で0-1で惜敗するも完投を記録している。

2013年度のNPBドラフト会議で横浜DeNAベイスターズから2巡目指名を受け、入団。背番号は「34」。ドラフト指名後には大学時代の野球部マネージャーの知人だった女性と結婚。入寮時には新妻を地元に残しての上京となっている。

プロ入り1年目となる2014年は春季キャンプ・オープン戦から首脳陣から高い評価を得た結果、開幕を一軍で迎える。すると3月28日の東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で救援投手としてプロ入り初登板を記録。1回を無失点に抑えた。しかし、2試合目の登板となった4月2日の読売ジャイアンツ戦(横浜スタジアム)では1死満塁のピンチを招き降板すると後続の山口俊も打ち込まれ、この回1イニング10失点を喫する要因となった(負け投手は山口)。その後は即座に一軍登録を抹消されるものの、7月に一軍復帰した後は7試合の登板では11回2/3を投げて防御率0.77と持ち直した。このシーズンでは9試合全てに救援登板して13.0回を投げて7奪三振、WHIP1.08、防御率3.46の成績だった。

2015年は6月6日の埼玉西武ライオンズ2回戦で9回から登板し、プロ野球史上17人目となる1イニング4奪三振を記録している。この年は6月にシーズン初昇格すると、6月・7月と続けて防御率0点台と好投を続けたが、8月2日の広島東洋カープ戦、8月4日の中日ドラゴンズ戦で敗戦投手となるなど後半戦にやや息切れ。最終的には28試合全てに救援で登板し、32.0回を投げて27奪三振、WHIP1.34、0勝2敗、4ホールド、防御率3.38に終わった。

2016年は二軍で30試合に登板して2勝0敗11セーブ、35回を投げて防御率1.03と好成績をマーク。しかし、一軍では登板した全ての試合で失点するなど精彩を欠き、4試合の救援登板でWHIP3.00、2奪三振、防御率21.60という成績だった。

2017年はオープン戦で8試合に登板して8回1/3を投げ、防御率1.04の好成績をマーク。ルーキーイヤー以来となる開幕一軍入りこそ逃すも、4月1日に一軍登録を果たした。その後は9月まで防御率2点台と好調を維持し、ロングリリーフを中心に自己最多の33試合に救援登板。36.1回を投げて29奪三振、WHIP1.35で0勝1敗、1ホールド、防御率4.71をマークした。また、チーム19年振りの進出となった福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでも第1戦(福岡ヤフオク!ドーム)で登板し、三者凡退に抑えている。

プロ入り5年目となる2018年は4月11日の巨人戦(東京ドーム)でプロ入り初の先発投手として起用され、勝ち負けはつかなかったものの、5回無失点と好投。その後は敗戦処理などで起用されたが、成績は1先発を含む17試合の登板で25.2回を投げて27奪三振、WHIP1.60で防御率6.66の成績だった。

2019年も前年同様に敗戦処理として救援で8試合に登板。8試合中5試合で失点し、WHIPも1.97、防御率も9.31と振るわなかった。オフにはオーストラリアン・ベースボールリーグのキャンベラ・キャバルリーへ派遣されている。

2020年は4年ぶりに開幕一軍入りを果たし、シーズン終了まで一軍に帯同。中継ぎ陣の一角として好投を続けた。また、今永昇太や平良拳太郎ら先発陣に故障者が続出していた経緯もあり、10月7日の巨人戦(東京ドーム)でプロ2試合目の先発登板を果たすと、5回2失点7奪三振で通算130試合目の登板でプロ初勝利を挙げた。130試合でのプロ初勝利は2000年の大阪近鉄バファローズの柴田佳主也が記録した168試合目、2017年に中日の祖父江大輔が記録した142試合目に続く歴代3番目の遅さとなった。最終的には一度も二軍に落ちることなくシーズンを終え、1先発を含む43試合の登板で44.1回を投げて46奪三振、WHIP1.42で1勝1敗、11ホールド、防御率2.84の成績を残した。オフには940万円増の年俸2,200万円で契約を更改している。

2021年は2年連続で開幕一軍入りを果たすも、安定感に欠ける投球が続き、5月以降は登板機会自体が減少。9月29日のヤクルト戦(神宮)ではプロ初セーブを挙げるなど、最後は7試合連続無失点でシーズンを終えたものの、シーズン全体では38試合の救援登板に留まる。投球成績も41.2回を投げて34奪三振、WHIP1.62で2勝0敗、1セーブ、1ホールド、防御率4.10と前年よりも成績がやや悪化した。オフの11月4日には横浜市内の病院で右肘のクリーニング手術を行ったことが発表された。また、契約更改では100万円増となる2,300万円で契約を更改している。

2022年は前年に受けた手術の影響で春季キャンプから二軍スタート。その後は二軍で調整を続けていたが、3月25日に新型コロナウイルスの陽性が判明し、開幕から出遅れる。その後は4月19日の二軍の巨人戦で実戦復帰し、4月23日に一軍登録された。

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