銀次(ぎんじ)

本名:赤見内 銀次〈あかみない ぎんじ〉、旧姓:宇部〈うべ〉。1988年2月24日生まれ。岩手県下閉伊郡普代村出身。右投げ左打ち。身長174cm、体重78kg。ドラフト指名当時の本名は宇部 銀次(うべ ぎんじ)であったが、母親の再婚により名字が赤見内(あかみない)に変更となった。2013年に産まれた長男の名前は虎次郎(とらじろう)。銀次の応援タオルや選手デーの応援ボードはこの名前にちなんだ虎柄となっている。なお、次男は桃次郎(ももじろう)。次男誕生以降は虎柄のタオルに桃のマークが入っている。

優れたバットコントロールが最大の武器。アマチュア時代からプロ入りまでは捕手だったが、打撃を活かす為に2009年の秋季キャンプから内野手にコンバートされた。内角球をわざと詰まらせてレフト前に落とす打撃技術をもつ。空振りが少なく、早打ちの傾向があるために三振・四球ともに少ない。一塁手としてはプロ入り時には捕手ということもあって捕球は安定しており、UZRは2016年にマイナスだったものの2013、2017、2018年にはプラスを記録しており、2017年にはゴールデングラブ賞を獲得している。

小学校2年時まで岩手県久慈市に住んでいたものの、祖父の住む同県普代村に引っ越し、野球好きの祖父の影響で野球を始める。普代小3年時には「普代村野球スポーツ少年団」に入団。野球を始めた当時は右打ちであったが、左打ちに変更したのも祖父の指導による。また、5年時に捕手となり、6年時に東北大会で準優勝。5・6年生時は祖父が同チームの監督を務めた。

普代中学時代は3年時にKボール全国大会へ岩手選抜の一員として出場した。

高校は盛岡中央高校へ進学。同校では1年時から左翼手としてレギュラー出場。その後三塁手を経て、2年夏から捕手に転向した。そして2年の秋季東北大会においては8打席連続安打、12打席連続出塁を記録し、チームのベスト8入りに貢献した。更に3年夏の岩手県大会では打率.750(24打数18安打)を記録。県決勝戦では4打数4安打を記録するも敗退し、甲子園出場はならなかった。高校通算24本塁打。

2005年の高校生ドラフト会議で地元球団である東北楽天ゴールデンイーグルスから3巡目指名を受けて入団。入団に際しては自身の苗字である「赤見内」が、当時の楽天の監督であった野村克也から「呼びにくい」と言われたことから、登録名は「銀次」となった。背番号は「67」。

プロ入り1年目となる2006年は二軍戦に主に代打で出場。一軍への昇格はならなかったが、フェニックスリーグでは打率.433(30打数13安打)を記録し、二軍監督の松井優典からも「フェニックスリーグでの一番の収穫は銀次の才能を発掘できたこと」とのコメントをもらった。

2007年も一軍への出場は無し。ただ、二軍で打率3割を記録した。また、フェニックスリーグでも16安打10打点、チームトップの打率.444を記録している。更に捕手だけではなく、三塁手や外野手としても起用された。

2008年も一軍戦の出場は無し。一方で二軍では二年連続となる打率3割をマークした。

2009年は春季キャンプを始めて一軍でスタートし、オープン戦の序盤まで一軍に帯同していた。しかし、首脳陣から評価を得られず、開幕前に二軍落ち。シーズンでも一軍に昇格することはなかったものの、二軍戦では53試合に出場して打率.281(146打数41安打)をマークした。また、秋季キャンプで内野手へコンバートされている。

プロ入り5年目となる2010年も2年連続で春季キャンプ一軍スタートしたが、開幕一軍はならなかった。それでも二軍では打撃好調で6月29日にプロ入り初の一軍登録と、その日の試合で初の先発出場を経験。7月1日のオリックス・バファローズ戦でプロ初安打を放っている。この年は一軍戦、通算2試合に出場して6打数1安打を記録した。また、守備では2試合で二塁の守備に就いた。一方で二軍ではフレッシュオールスターゲームに選出されるも怪我の影響で辞退。更に離脱期間が長く、規定打席不足ながら打率.367と一時はイースタン・リーグ首位打者に輝くほど打撃は好調だった。

2011年は初の開幕一軍入りを果たす。だた、4月後半に二軍に降格。その後は二軍で打率.345を記録したが、一軍に呼ばれる機会が前年より増えたために二軍での規定打席には到達しなかった。しかし、例外規定を適用しても規定打席を満たした打率1位の雄平の.330を上回るため、初のイースタン首位打者を獲得。一方で一軍では9月から不振に陥った山崎武司に代わり一塁手としてスタメンで出場する機会が増加。主に6・7番を打ち、10月5日の北海道日本ハムファイターズ戦ではダルビッシュ有から適時打を放ってプロ初打点を記録した。この年は最終的に一軍戦22試合に出場して59打席で全て単打で12安打を記録し、打率.222、出塁率.263の成績だった。オフに背番号が「33」に変更された。

2012年も開幕一軍入り。この年は前年まで正二塁手だった内村賢介の不振もあり、5月の半ばより二塁手としてレギュラーに定着。前半戦は主に2番打者と起用され、後半戦からは3番や5番で三塁手としての起用が多くなった。そして6月27日の日本ハム戦では多田野数人からプロ初本塁打を放っている。この年は126試合に出場して485打席に立ち、初の規定打席到達。チームトップの打率.280、チーム2位の121安打、4本塁打、OPS.672を記録した。一方で守備や走塁でのミスも散見されるシーズンとなった。オフの11月22日には5歳年上のメイクアップアーティストの女性と結婚。契約更改では前年の約3倍となる2,200万円でサインした。

2013年は新加入のケーシー・マギーが三塁手に定着し、銀次は一塁手としてシーズン開幕を迎える。この年は序盤こそ調子が上がらずスタメン外れることも多く、セ・パ交流戦は普段は指名打者のアンドリュー・ジョーンズがファーストに回るために代打のみの出場になるも、代打で6打数5安打と結果を残して交流戦明けからは「3番・一塁手」に定着。7月26日には打率.343となり一時首位打者に浮上し、最終的に自身初となる打率3割(.317、リーグ4位)を記録。球団初のリーグ優勝と日本一に貢献した。シーズン通算成績は131試合に出場して525打席に立ち、OPS.769で4本塁打を記録した。また、読売ジャイアンツとの日本シリーズではチームトップタイの5打点を記録し、優秀選手賞を獲得。11月には台湾で行われた「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」の日本代表に選出されている。6月12日に第1子となる長男が誕生した。

2014年はメジャーリーグ復帰のマギーに代わって入団したケビン・ユーキリスがファーストを守る関係で春季キャンプから再び三塁手に転向。ただ、ユーキリスが公式戦開幕後の4月下旬に故障で戦線を離脱してからは再びファーストを守るようになった。しかし、銀次自身も腰痛を発症したため5月24日に出場選手登録を抹消。抹消後に患部の精密検査を受けたところ、第2腰椎横突起骨挫傷と診断された。その後は6月19日の広島東洋カープ戦から一軍に復帰。7月10日にはオールスターゲームのファン投票および選手間投票でパシフィック・リーグ三塁手部門の1位だった松田宣浩が故障で出場を辞退したことを受けて、松田の補充選手として同ゲームに初めて選出された。このシーズンはシーズン終盤に糸井嘉男と首位打者争いを繰り広げて最終的に117試合の出場で509打席で打率リーグの2位の.327を記録。その他の成績は出塁率.384、OPS.793、4本塁打で三塁手部門で自身初となるベストナインに選出された。オフには日米野球2014の日本代表に選出されたことが発表された。

プロ入り10年目となる2015年は開幕前の2月16日に「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表に選出されたことが発表された。その後は3月11日の第2戦に「6番 三塁手」で先発出場し、3打数1安打で1打点を記録。シーズン開幕後は「銀次デー」と銘打たれた4月12日のオリックス戦で佐藤達也からプロ入り初のサヨナラ安打を記録した。その後も打率3割を維持していたが、5月23日の埼玉西武ライオンズ戦での本塁でのクロスプレーの際に左足を負傷し、翌日に出場登録を抹消。この試合では打撲と診断されたが、その後に左腓骨の不全骨折と判明。復帰が大幅にずれ込んだ。結局、8月18日に一軍に復帰し、82試合の出場で354打席と規定打席には届かなかったが、打率.301、OPS.707を記録。また、7月16日には第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補選手に選出されたことが発表され、9月10日に第1回WBSCプレミア12の日本代表候補選手に選出されたことが発表されたが、最終ロースター28名には選出されなかった。

2016年は川端慎吾の辞退に伴って開幕前の3月2日に「侍ジャパン強化試合 日本 vs チャイニーズタイペイ」の日本代表に追加登録されたことが発表された。同試合では適時打を放っている。シーズンでは開幕を2番・一塁手で迎えたが、打率は2割台前半と低調が続き、交流戦中の6月には二軍落ちを経験。それでも交流戦明けには一軍復帰し、7月には月間打率.361と復調の兆しを見せたが、8月に右内転筋の損傷で再び登録抹消。最終的には125試合の出場で497打席に立って2年ぶりに規定打席に到達したものの、打率は4年ぶりに3割を下回る.274、本塁打と打点は規定到達年では最低となる2本塁打と43打点、OPS.702で併殺打はリーグ3位及び自己ワーストの20だった。オフには年俸500万円減の推定年俸7,600万円で契約更改した。

2017年は開幕を「5番・二塁手」で迎える。更に7月28日のオリックス戦ではプロ初の4番で起用され、本塁打を含む2安打の活躍を見せた。この年は自身初となる全試合出場を果たし、590打席で打率はリーグ5位の.293、得点圏打率は同2位の.369、3本塁打でOPSは.728だった。加えて二塁手として4年ぶりに出場を果たし、この年では同位置での先発出場がチーム最多の80試合に到達。二塁の守備では初めて失策も0で終えた。また、一塁手としてはリーグトップの守備率.994を記録しながら規定試合数に到達し、自身初のゴールデン・グラブ賞を受賞。一塁手部門でのベストナインにも選出された。チームとして4年ぶりのポストシーズン進出となったクライマックスシリーズ・ファイナルステージでもチームは敗退したが、銀次自身は第4戦で本塁打を放っている。

2018年も前年に続いて一塁手のレギュラーとして、時に二塁手として出場を続け、139試合に出場。552打席で規定打席に到達したが、打率は.276、OPS.704と前年の成績は下回った。また、本塁打は自己最多の5本を記録した。

2019年は4月7日の対オリックス第3回戦(京セラドーム大阪)で楽天ベンチが登録捕手を全て使い切ったため、9回裏から内野手登録となってから初の捕手としての一軍出場を果たした。また、この試合では公式戦初の盗塁阻止も記録(走者は西浦颯大)している。更に6月9日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)では通算1,000本安打に到達。楽天の生え抜き選手では初となる記録となった。そして監督推薦で5年ぶりにオールスターゲームにも選出されている。この年は141試合に出場して590打席に立ち、5年ぶりに規定打席に到達しながらの打率3割を記録。自己最多の161安打と前年に続く5本塁打を記録してOPSは.752だった。オフにはFA権を行使せずにチーム残留を宣言。銀次は「東北出身者としてここにいなくてはいけない」「もっと東北を熱くしたい」と郷土愛を理由に残留することを語った。

プロ入り15年目となる2020年は新型コロナウイルスの影響で開幕が遅れ、短縮シーズンとなり、この年は銀次としては打撃の調子が上がらないシーズンとなる。この年はシーズン通算で88試合の出場に留まり、245打席で打率.236、0本塁打、OPS.586に終わった。

2021年は前年よりは打撃が好調だったものの、35試合の出場に留まり、105打席で打率.286、OPS.678で二年連続の本塁打0に終わった。

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