阿部翔太(あべ・しょうた)

1992年11月3日生まれ。大阪市大正区出身。身長178cm、体重78kg。右投げ左打ち。大阪市大正区は京セラドームのある地区であり、実家から京セラドームは徒歩10分程度の近さ。球団史上最も本拠地に近い選手といわれる。入団時点で妻・恵未佳さん(32)、長女・純麗(すみれ)ちゃん(3)という家族もいる子連れ。

最速150kmの回転の良い直球とフォークボールを中心とした多彩な変化球で打者を翻弄するピッチングが持ち味。コマンドが安定しており、強気のマウンドさばきも特徴。

大阪市立中泉尾小学校で父親の影響で軟式野球を始める。

大阪市立大正東中学校時代は大正シニアに所属しており、ポジションは捕手であった。

高校は酒田南高校へ進学。同校では捕手としてプレーを始めた。ただ、3年春に2学年下に下妻貴寛が入ってきたことで投手に転向。それについて本人は「すぐに抜かれて。ものすごい実力があった。もともと自分たちの代に投手がいなかったのと僕は地肩が強かったので、監督に『1回、投手やってみ』と言われて投手になった」とのこと。初めての公式戦マウンドは最後の夏の大会だった。

高校卒業後は京都の福知山にある京滋大学野球連盟の成美大学に進学。他にも進学先はあったが、成美大を選択した理由は「もともと酒田南に呼んでくれた当時のコーチの峰地良和さんが成美大学のコーチになり、 また、峰地さんが僕を呼んでくれた。中学まで真面目に野球をやってなかった僕を変えてくれた恩人。峰地さんに人生を救われたと言っても過言じゃない。峰地さんと出会ってなかったら今も野球をしているかわからない。僕にとって恩師だからふたつ返事で『はい!行きます!』と成美大に行くことにした。」 と語っている。また、同校では進学直後から投手へ本格転向。2年秋の仏教大戦では1安打8奪三振で完封勝利するなど、下級生時代から活躍した。もっとも、その後は右肘を故障し、登板できない日が続いた。やっと投球できるようになったのは4年春からだった。また、在学中はアルバイトも率先して取り組んでおり、週4日はスーパのレジやコンビニで働き、オフシーズンには短期のバイトも行った。

大学卒業後は「日本生命に行って練習だけでも経験しておいで」という声がかけられたことが転機に。阿部本人は「嫌です。成美大みたいなところから行っても恥かくだけです」と断ったものの、それでも半ば無理やり、練習に行くことになり、ブルペンでピッチングをすると調子が良かったため、急遽、シートバッティングで投げさせることに決定。そこで阿部は「自分でもビックリした」と語るほど一線級の打者をほぼ完璧に抑え、日本生命への入社を決めた。日本生命では入社1年目に右肩痛を発症するが、復帰後は長年エース格を担い、都市対抗野球大会、日本選手権大会にはそれぞれ4回出場。また2019年には第29回BFAアジア選手権代表にも選出されている。更に小林慶祐とは同期入社であり、小林がプロ入りする前年の入社2年目までは共にプレーしていた。そして迎えた3年目の都市対抗予選初戦では新日鐵広畑との試合で10回を1失点完投勝利。もっともその年、ドラフトで阿部を指名する球団はなかった。そのため、プロに行きたい気持ちも徐々に薄れてはいたという。

2020年にオリックスからドラフト6位指名を受け、契約金2,500円、年俸880万円で入団。背番号は45となった。また、28歳での入団はこの年のドラフト全指名選手の中で最高齢であり、オリックス・バファローズとしても2002年に11巡目指名で入団した牧田勝吾を超える球団新人最年長となった。

プロ入り1年目となる2021年は4月28日に一軍初昇格を果たし、4月30日の対福岡ソフトバンクホークス戦(京セラドーム大阪)で8回表二死からプロ初登板。1/3回を無失点に抑えた。ただ、これ以外の試合で打ち込まれることが多く、シーズン通算では4試合に救援登板して3.2回を投げて3奪三振、WHIP1.36で防御率7.36だった。

2022年は一転して44試合に救援登板。44.0回を投げて42奪三振を奪い、WHIP0.73、防御率0.61で1勝0敗3セーブ、22ホールドをあげる等、飛躍のシーズンとなった。

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