松永 昂大(まつなが・たかひろ)

1988年4月16日生まれ。香川県大川郡志度町(現:さぬき市)出身。左投げ左打ち。身長175cm、体重82kg。かなりの強心臓でマウンド上では飄々としている。しびれる場面でバッターを抑えても「“良かった”と思うぐらい。胃がキリキリすることもないですね」と語る。

サイドスローに近いスリークォーターから投じる横の角度が武器の左腕。平均球速約141km/h、最速151km/hのストレートと斜めに鋭く曲がるスライダーが投球の軸。

志度小学校3年時に地元の少年野球チーム、「志度源内」に入団して野球を始めた。

志度中学校では同校の軟式野球部に所属。3年時にはエースとして県大会優勝に貢献した。

高校は高松商業高等学校へ進学。同校では2年秋からエースとなり、秋季県大会で準優勝。秋季四国大会にも出場し、ベスト8入りを果たした。また、春季県大会決勝では丸亀城西高校に敗れたものの、2季連続の準優勝で春季四国大会に出場。シード2位で挑んだ夏の全国高等学校野球選手権香川大会では3回戦で敗退し、全国大会への出場はならなかった。

高校卒業後は関西国際大学に進学。同校の硬式野球部では1年春から公式戦に出場。榊原諒や伊原正樹が抜けた3年春には主戦投手となり、春・秋ともにMVP、4年時はこちらも春・秋ともに最優秀投手賞を受賞した。特に4年秋はリーグ記録まであと1勝に迫る8勝をマークしている。阪神大学リーグ通算では42試合に登板し、23勝3敗、防御率1.14、257奪三振を記録した。また、大学卒業時点ではプロ志望届は提出しなかった。

大学卒業後は社会人野球の大阪ガスに入社。1年目の2011年は都市対抗予選では全9試合のうち7試合に先発。ただ、本大会出場はならなかった。2年目の2012年もチームは予選で敗退したが、同僚の公文克彦と共にパナソニックの補強選手に選出されて本大会に出場。2回戦のJFE西日本戦に先発し、7回0/3を投げて無失点(被安打5、9奪三振)の好投で勝利投手になるなど、パナソニックの8強進出に貢献した。ただ、8月31日に大阪ガスの部員・OBらによる集団賭博が発覚し活動自粛となったため、日本選手権の出場はならなかった。ちなみに活動自粛中はデスクワークを終日こなし、仕事後にランニングをする程度でボールを握った練習はしていなかった。なお、12月10日には賭博にかかわった部員18人が書類送検されたが、その中に松永は含まれていなかった。

2012年度のNPBドラフト会議で藤浪晋太郎を抽選で外したオリックス・バファローズと千葉ロッテマリーンズが1巡目指名で競合し、抽選の結果ロッテが松永の交渉権を獲得。契約金1億円プラス出来高払い、年俸1,500万円(金額は推定)で契約し、背番号は「28」となった。

プロ入り1年目となる2013年は開幕一軍入りを果たし、3月29日のオリックス・バファローズ戦で7回表に三番手投手としてプロ初登板。1回1/3を無失点に抑え、プロ初ホールドを記録した。その後は抑えの益田直也に繋ぐセットアッパーとして起用され、4月25日の埼玉西武ライオンズ戦でプロ初勝利をマーク。8月8日の福岡ソフトバンクホークス戦ではプロ初セーブを挙げた。また、8月中旬の時点でリーグ2位のホールドポイントを記録していたが、先発投手の駒不足によって8月30日の北海道日本ハムファイターズ戦でプロ初先発登板。5回1失点と好投し、そのまま先発に転向した。その後は6先発で2勝0敗防御率2.57と先発でも安定した成績を残し、チーム3年ぶりのAクラス入りに貢献。シーズン通算では58試合(6先発)の登板で76.2回を投げて65奪三振、WHIP1.24で4勝1敗28ホールド1セーブ、防御率2.11だった。オフには2,250万円増の推定年俸3,750万円で契約を更改。また、11月に台湾で行われた「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」の日本代表にも選出された。

2014年はセットアッパーとして開幕から登板を重ねたが、救援失敗が目立ったことから開幕から23試合の登板で4ホールドに留まり、6月15日に登録を抹消された。その後は7月3日のソフトバンク戦で先発登板し、一軍に復帰。この登板の後はリリーフに戻り、ホールドを重ねていたが、左肘の関節周囲炎で8月6日に再び登録抹消。9月4日に再び一軍に復帰したが、同21日に再び登録抹消となり、シーズンを終えた。この年は46試合(1先発)の登板で41.1回を投げて21奪三振、WHIP1.55、4勝3敗12ホールド・防御率3.27という成績で三振を奪えなかった。オフには150万円増の推定年俸3,900万円で契約を更改している。

2015年は3年連続で開幕一軍入りを果たしたが、開幕から23試合の登板で防御率6.19と不調で5月29日に登録を抹消された。その後は8月20日に再び出場選手登録をされると再昇格後18試合でわずか1失点と復調を見せ、最終的には防御率を3.72まで持ち直した。この年は41試合全てにリリーフ登板して29.0回を投げ、24奪三振、WHIP1.28、13ホールドを記録。オフには800万円増の推定年俸4,700万円で契約を更改した。

2016年も開幕一軍入りを果たし、開幕から13試合連続無失点を記録。ただ、7月に入って3イニングで8四死球と制球難に陥り、7月30日に登録を抹消された。その後は8月21日に一軍復帰しシーズン終了までブルペンの一角を担った。この年は全て救援で53試合の登板で39.0回を投げて27奪三振、WHIP1.36、3勝0敗10ホールド、防御率3.46という成績を残した。オフには1,000万円増の推定年俸5,700万円で契約を更改した。

プロ入り5年目となる2017年は5年連続となる開幕一軍入りを果たすも、開幕から7試合で防御率10点台と振るわず、4月27日に登録抹消。その後は5月31日に一軍へ再昇格すると復調し、セットアッパーを任された。この年は50試合全てに救援として登板し、36.1回を投げて31奪三振、WHIP1.24で1勝3敗18ホールド、防御率3.22という成績を残した。オフには300万円増の推定年俸6,000万円で契約を更改している。

2018年は開幕からセットアッパーを任され、7月20日のオリックス戦で通算100ホールドを達成。このシーズンは一度も登録抹消されることなくシーズンを終え、自己最多の60試合全てに救援登板。40.0回を投げて35奪三振、WHIP1.45、2勝5敗26ホールド、防御率3.15と好成績を収め、オフには1,000万円増の推定年俸7,000万円で契約を更改した。ただ、11月開催の日米野球にメンバー入りしていたものの、肩に違和感があったため出場は辞退することとなった。

2019年は7年連続となる開幕一軍入りを果たしたが、左肘の炎症で5月30日に登録を抹消。その後は6月28日に一軍復帰し、7月は10試合・8回1/3を投げて、7ホールド・防御率0.00と好投したが、左肩痛で9月9日に再び登録抹消となり、そしてそのままシーズンを終えた。この年は2度の故障によって全て救援で46試合の登板に留まったものの、34.2回を投げて32奪三振、WHIP1.21、2勝3敗25ホールド、防御率2.60という成績だった。オフには500万円増の推定年俸7,500万円で契約を更改した。

2020年は新型コロナウイルスの影響で開幕が6月となり、短縮シーズンとなったほか、松永も左肘の状態が悪く、プロ入り後初めて開幕一軍を逃した。その後は7月21日に一軍へ昇格し、8月8日に国内FA権を取得。ただ、同10日に登録を抹消されている。そしてその後も左肘のコンディション不良に悩まされ、一軍登板が無くシーズンを終え、プロ入り後最少となる5試合の登板に留まった。そしてオフの12月3日に国内FA権を行使することを発表した。

2021年は1月27日に現状維持の推定年俸7,500万円でロッテと再契約し、残留することが発表された。この年は春季キャンプ初日からブルペン入りするなど調整を続けていたが、3月1日のオープン戦を最後に二軍調整となり、その後レギュラーシーズンでは左肩の蓄積疲労が原因で一・二軍とも登板がなかった。するとオフの11月26日に戦力外通告を受け、12月17日に育成選手として再契約。背番号は「138」となった。

プロ入り10年目となる2022年は7月30日に再び支配下登録に移行。背番号は以前と同じ「28」となった。しかし、肩痛の影響で一軍二軍ともに1度も登板機会はなく、シーズン終了後の10月6日に同シーズン限りで現役を引退することが発表された。そして11月1日に翌シーズンよりロッテの育成投手コーチを務めることが発表されている。

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