近藤 健介(こんどう・けんすけ)

1993年8月9日生まれ。千葉県千葉市緑区出身。右投げ左打ち。身長171cm、体重85kg。ボウリングのベストスコアは230。

優れた選球眼が最大の武器。バットコントロールにも長け、四球の数が三振数を上回ることも少なくない。2020年までは規定打席に到達したシーズン全てで打率3割以上を記録しており、レギュラー定着以降の2018年シーズンからは3年連続で出塁率.420を超えている。守備は2014年以降は強肩と打撃の能力を生かすべく、三塁手、外野手、指名打者と、捕手以外のポジションでのスタメン起用が増えている。

千葉県の軟式野球クラブの泉谷メッツで野球を始める。千葉市立泉谷小学校6年時には千葉ロッテマリーンズジュニアに選出されると第1回NPB12球団ジュニアトーナメントで髙山俊、船越涼太らと共に準優勝を経験した。

中学は中学野球界の強豪である修徳学園中学校に進学。同校の軟式野球部に所属し、2年時には「1番・遊撃手」として第29回全国中学校軟式野球大会へ出場するとともに、捕手としてマスクも被った。また、3年時のKボール全国大会(第3回KB全国中学生秋季野球大会)では4番打者・主将・捕手の3役を兼ねながらチームを準決勝進出に導いた。

高校は自身の意思で横浜高校へ入学。同校でコーチを務める小倉清一郎(入部1年目は部長)は後に「私が勧誘したわけではなく、近藤の方から『横浜高校に入りたい』と売り込んできた。総合力で横浜高校歴代捕手でも3本の指に入る」と評価している。ただし、入部当初は遊撃手としてレギュラーを確保。主将だった筒香嘉智の下で夏の選手権神奈川大会に出場すると1年生ながら打率.438を記録した。また、チームが準々決勝で横浜隼人高校に僅差で敗れると秋からは肩の強さを買われ捕手へ転向した。ただ、2年時には夏の選手権神奈川大会決勝で東海大相模高校に敗退。その後は2年秋から3年春の第83回選抜大会まで主将を務め、選抜大会で初戦敗退を喫してからは乙坂智に主将を譲りながらも、事実上の副主将としてチームを支えた。しかし、3年時には夏の選手権神奈川県大会直前に右足首の靭帯を痛め、その影響で打撃不振に陥った。それでも桐光学園高校との決勝戦では試合を決める一打を放ってチームを全国大会への出場に導き、更に全国大会終了後には第9回AAAアジア野球選手権大会日本代表に選出されている。同大会では相手走者の盗塁を阻止するなどの強肩でチームの優勝に貢献したほか、自身も捕手としてオールスターチーム(ベストナイン)に選ばれた。高校通算38本塁打。

2011年度のNPBドラフト会議で捕手として北海道日本ハムファイターズから4巡目指名を受け、契約金3,000万円、年俸500万円で入団。背番号は「54」。

プロ入り1年目となる2012年は春季名護キャンプのスタートを二軍でスタート。ただ、2月16日には横浜DeNAベイスターズとの練習試合で8回から捕手として対外試合にデビューした。そしてこの試合で2010年のイースタン・リーグ盗塁王だった梶谷隆幸の盗塁を阻止したことで、首脳陣に注目され、キャンプ終盤の2月24日から一軍に昇格している。また、レギュラーシーズンは二軍スタートであったが、7月4日のオリックス・バファローズ戦(京セラドーム大阪)の6回表に代打で一軍公式戦デビューを果たすと、その裏から試合終了まで捕手の守備に就いた。更に7月13日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)では「8番・捕手」として先発出場。日本ハムの高卒新人選手が捕手としてパシフィック・リーグの公式戦に出場した事例は前身の東映フライヤーズ時代の安藤順三(1954年)、山本八郎(1956年)に次いで史上3人目であった。また、先発での出場でも山本以来56年ぶり、史上3人目の記録だった。このシーズンは一軍公式戦通算で20試合に出場し、30打席で打率.192、OPS,434、2打点、出塁率.241を記録。読売ジャイアンツとの日本シリーズにも代打で3試合に出場した。また、高卒新人捕手の日本シリーズ出場は1956年の田辺義三(西鉄ライオンズ)以来、56年ぶりの記録だった。

2013年は春季キャンプからオープン戦の終盤まで一軍に帯同したが、開幕は二軍で迎えた。また、二軍では捕手ながら二軍のクリーンナップに定着すると4月に安打数、出塁率でリーグのトップに立ち、3・4月の「リーグ月間MVP」を受賞。5月8日には一軍昇格を果たしたが、5月16日に登録を抹消されている。それでも抹消後もイースタン・リーグで長らくトップの打率を維持したことから、フレッシュオールスターゲームでは同リーグの選抜メンバーに選出され、8月2日の一軍再昇格後はレギュラー外野手の中田翔の死球による戦線離脱を背景に、捕手登録ながら右翼手としてスタメン出場を続けた。この年は一軍公式戦32試合に出場し、80打席で打率.152、出塁率.269、OPS.421、2盗塁(0盗塁死)を記録。捕手としては15試合の出場だった。

2014年はプロ入り3年目で初めて開幕を一軍を迎えると大野奨太、市川友也と併用される形で捕手として先発出場を続けた。また、5月2日のオリックス戦(札幌ドーム)からは三塁手のレギュラーである小谷野栄一の故障による戦線離脱に伴って「横浜高校時代以来」という三塁手として連日先発で起用された。そして「7番・三塁手」として出場した5月16日のロッテ戦(札幌ドーム)では成瀬善久から1回裏の第1打席で一軍公式戦での初本塁打となる2点本塁打を記録。同月29日の東京ヤクルトスワローズ戦(神宮球場)では「2番・三塁手」として先発出場し、3回表の第2打席では「人生で初めて」という満塁本塁打をバックスクリーンへ放った。また、この本塁打を放った時点の年齢が20歳9か月であり、「パ・リーグの公式戦で満塁本塁打を放った最年少選手」の球団記録(1961年の張本勲が東映フライヤーズ時代の21歳1か月)を更新している。その後も三塁手として先発出場を続けたが、6月15日のヤクルト戦(札幌ドーム)で走塁中に左太腿裏に筋挫傷を発症したため、6月17日に登録抹消。一軍への復帰以降は三塁手での先発出場を中心に本来のポジションである捕手としても出場を続けた。このシーズンは前年を大きく上回る89試合に出場し、291打席で打率.258、4本塁打、28打点、出塁率.295、OPS.682でチーム最多の20二塁打を記録するなど長打力を発揮した。また、捕手として出場したのは16試合で三塁手として70試合、遊撃手としては2試合守備に就いた。オフの11月に開催された第1回21U野球ワールドカップでは日本代表に選出され、同大会では「4番・一塁手」で起用された。

2015年は大野と市川が揃って開幕戦に間に合わなかったことから3月28日の楽天戦(札幌ドーム)で「7番・捕手」として自身初となる開幕スタメンを記録。その後も正捕手としてレギュラーに定着し、3割を越える打率を維持したことから5月下旬からは5番打者を任されるようになった。その一方で、盗塁阻止率が1割台にとどまるなど、送球面で粗さが露呈。前半戦で指名打者を務めていたジェレミー・ハーミッダや大谷翔平が打撃不振に陥ったこともあり、後半戦からは主に指名打者で起用された。この年は129試合に出場し、504打席に立って規定打席に初めて到達。リーグ3位の打率.326、8本塁打、60打点、OPS.872、同3位となる出塁率.405を記録した。一方で捕手としては58試合にとどまるり、盗塁阻止率は.194だった。

プロ入り5年目となる2016年は背番号を「8」へ変更。この年は春季キャンプから膝の故障に悩まされ、コンディションが整わないまま開幕を迎えた。ただ、3月25日のロッテ戦(QVCマリンスタジアム)には「5番・指名打者」で2年連続となる開幕スタメンに名を連ねている。この年は怪我の影響もあり、前年からは減少となる80試合に出場。291打席に立って打率.265、2本塁打、27打点、出塁率.337、OPS.660を記録した。また、二刀流の大谷が指名打者として起用されたこともあり、栗山英樹監督の方針で5月下旬から6月中旬までは捕手への本格復帰に向けて二軍での調整もしたが、一軍では54試合で外野を守り、捕手としての出場は1試合にとどまった。そして10月12日の福岡ソフトバンクホークスとのCSファイナルステージ(札幌ドーム)では2点適時打を、10月23日の広島東洋カープとの日本シリーズ(マツダスタジアム)では守備で好プレーを見せ、10年ぶりとなる日本一に貢献した。

2017年は前年の秋季キャンプから練習を続けていた二塁手に挑戦し、春キャンプの起亜タイガースとの練習試合でも「2番・二塁手」として出場していた。ただ、体調不良も重なり二塁手転向が頓挫。3月31日の西武との開幕戦(札幌ドーム)を「5番・右翼手」で迎えると以降も右翼手や指名打者としてクリーンナップの一角を担い、4割を超える打率を維持し続けた。そしてシーズン47試合目の出場であった6月1日の横浜DeNAベイスターズ戦(札幌ドーム)終了時点で打率.415を残したことによって「パ・リーグの開幕戦から4割以上の打率を維持した連続試合」という球団のシーズン記録(張本が日拓ホームフライヤーズ時代の1973年に達成した46試合)を更新。以降も打率4割を維持したままセ・パ交流戦に突入したため、オールスターゲームでは選手間投票のパ・リーグ外野手部門3位で自身初となる選出を果たした。しかし、6月3日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)へ出場した後に右太腿の張りを訴えると、6月6日の広島戦(札幌ドーム)の7回裏の代打起用を最後に出場選手登録を抹消された。更に抹消後の検査で腰部の椎間板ヘルニアと診断されたため、6月28日には脊椎の内視鏡手術(腰椎椎間板ヘルニア摘出術PED法)を受け、実戦への復帰までに約3か月を要することからオールスターゲームへの出場を辞退している。その後は9月28日の楽天戦(札幌ドーム)で「3番・指名打者」で一軍復帰している。この年は怪我の影響から57試合の出場で231打席に立ち、打率.413(シーズン打席数が100打席以上の選手としては歴代最高打率)、出塁率.567、OPS.1124と脅威の数字を残した。シーズン途中での打率4割は1989年の403打席のウォーレン・クロマティのように存在したが、クロマティのシーズン最終成績は打率4割を下回り、100打席以上立ちなおかつ打率4割のままシーズンを終えたのはNPBでは近藤のみとなった。オフの11月には東京ドームで開催された第1回アジア プロ野球チャンピオンシップで日本代表に選出され、同大会では「3番・指名打者」として全3試合にスタメン出場。12打数7安打、打率.583という好成績で日本の優勝に大きく貢献すると共に指名打者として大会のベストナインに選ばれた。オフの契約更改では1,300万円増となる5,600万円で契約を更改している。

2018年はアリゾナ春季キャンプで2年ぶりとなる捕手復帰を果たすも、開幕戦となる3月30日の西武戦(札幌ドーム)は「3番・右翼手」で迎えた。そして開幕戦からは4月20日のソフトバンク戦(札幌ドーム)まで17試合連続で4割以上の打率を記録するなど、前年に続きリーグ打率トップを独走。ただ、4月28日のロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)の2回裏の左翼守備中に本塁へ返球した際に右ふくらはぎに軽度の筋挫傷を発症したため、途中交代。交代時点でリーグトップの打率.392を記録していたが、筋挫傷の影響で5月1日に登録を抹消された。それでもオールスターゲームでは前年に続いてパ・リーグの指名打者部門ファン投票で1位を獲得し、2度目となる選出と2年越しの初出場を果たしている。シーズン通算では129試合に出場し、555打席に立って2015年以来、3年ぶりに規定打席へ到達。柳田悠岐、秋山翔吾と首位打者の座を争いつつ、最終的にはリーグ3位となる打率.3225を記録した。その他にも自己最多となる9本塁打、69打点、OPS.884でリーグ2位となる出塁率.427を記録。守備面では左翼手のレギュラーとしてリーグ3位のUZR+10.2を記録している。そして10月13日に行われたソフトバンクとのCSファーストステージ(ヤフオクドーム)では第1打席でアリエル・ミランダからポストシーズン初本塁打を記録。オフには正三塁手のブランドン・レアードの退団、王柏融の獲得などチーム状況が変わりつつあることを背景に秋季キャンプで三塁手の守備練習を2年ぶりに再開した。契約更改ではほぼ倍増となる1億円で契約を更改し、パ・リーグの指名打者部門で自身初となるベストナインを受賞している。

2019年は登録ポジションを捕手から外野手へ変更したが、春季キャンプから大田泰示、淺間大基らと正三塁手の座を争った。また、開幕前の3月15日には結婚したことが発表されている。そしてシーズンでは3月29日のオリックスとの開幕戦(札幌ドーム)に「3番・指名打者」で出場も、以降は左翼を中心出場。王との兼ね合いから3年ぶりとなる三塁手での出場も果たしている。そして4月24日の楽天戦(札幌ドーム)から連続試合出塁記録を伸ばし、6月11日の広島戦(札幌ドーム)まで40試合連続出塁を記録。2日後の13日の同じく広島戦(札幌ドーム)に代打で出場し、三振を喫したことで記録が「40」で止まったものの、球団では小笠原道大、西川、田中賢介に次ぐ史上4人目の記録となった。更に7月にはパ・リーグ指名打者部門のファン投票で1位を獲得し、3年連続でオールスターゲームに選出され、2度目の出場。シーズン通算では自己最多の138試合に出場し、600打席でリーグ6位となる打率.302、2本塁打、59打点、OPS.822で四球はリーグ最多となる103個を記録し、出塁率.422で自身初のタイトルとなる最高出塁率を獲得。守備面では86試合で外野を、30試合で三塁を守った。ただ、左翼の守備では前年からは大きく指標を落とし、リーグワーストとなるUZR-1.3を記録。それでも11月に開催された第2回WBSCプレミア12の日本代表に選出され、外野手として日本の初優勝に貢献した。オフには2022年シーズンまでとなる3年契約を締結し、年俸は変動制で2020年シーズンの年俸は1億5,000万円となった。近藤は「ファイターズにいたいというのが一番だったので。それは吉村GMにも伝えましたし、それもあっての3年契約かなと思います」とチーム愛を語っている。

新型コロナウイルスの影響で開幕が遅れ、短縮シーズンとなった2020年は3月6日に第一子となる長女が誕生。開幕戦となる6月19日の西武戦(メットライフドーム)では「3番・左翼手」で出場している。この年は6月の月間打率.212と低調スタートとなったものの、7月以降は毎月打率3割超えを維持。10月15日の西武戦(札幌ドーム)では史上13人目となる1試合4二塁打のNPBタイ記録を記録し、球団では糸井嘉男以来、10年ぶりの記録となった。この年は108試合に出場し、467打席で吉田正尚、柳田に次ぐリーグ3位となる打率.340を記録。5本塁打、60打点、OPS.934、リーグ3位となる89四球、出塁率では前年を大きく上回る出塁率.465を記録して2年連続で最高出塁率のタイトルを獲得した。また、守備では74試合に左翼手として出場し、前年からは指標を落とすもリーグ2位となるUZR-4.5を記録。オフには2年ぶり2度目となるベストナインを外野手部門で受賞し、翌シーズンからは中島卓也の後任となる選手会長に就任した。また、契約更改では4,500万円増となる1億9,500万円で契約を更改している。

プロ入り10年目となる2021年は指名打者を中心に時折左翼手として起用されたが、大田泰示の不振や淺間大基の活躍で西川遥輝が左翼に回り、近藤は右翼手としての出場が増えていった。また、中田が不在の状況が長引き、最終的に移籍した影響もあって4番打者での起用も多くなった。この年は2年ぶりに開催されたオールスターゲームに選出されたが、急性胃腸炎を患ってしまって2試合とも欠場。東京オリンピック代表にも選出され、本戦では代打で2試合、先発で1試合に出場して打率.333を記録した。ただ、9月11日のソフトバンク戦では右翼手で先発出場するも守備の際にフェンスに激突して負傷交代。翌12日に「脳震盪特例措置」で登録抹消となった。この年は133試合の出場で545打席に立ち、打率.298はリーグ5位、11本塁打、69打点はそれぞれ球団1位、37二塁打はリーグ1位と気を吐き、OPS.885で指名打者部門として3年ぶり2回目、外野手部門も含めると2年連続3回目となるベストナインに選出された。オフの契約更改では6,000万円増の推定年俸2億5,500万円で契約を更改した。

2022年は自身の誕生日である8月9日にプロ入り初となる逆転サヨナラ本塁打を放った。誕生日のサヨナラ本塁打はNPB史上2人目であり、また北海道日本ハムファイターズにとっては元号が令和になって初のサヨナラ本塁打でもあった。更に9月10日の西武戦(ベルーナドーム)で通算1000安打を放ち、翌11日の同カードで通算1000試合出場を達成した。この年は99試合の出場に留まり、396打席で打率.302、OPS.879で自己最多の8盗塁(7盗塁死)を記録。オフに海外FA権を行使し、フリーエージェントとなった。

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